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16 観光スポット
マカオの歴史をたどる
文明が交わる美しい歴史的な街にようこそ。あなたの目とカメラにすべての思い出の瞬間を刻んでください。
南灣大馬路
マカオの人々が新馬路(サンマァロゥ)(正式名称:亜美打利庇盧大馬路/Avenida de Almeida Ribeiro)と呼ぶ目抜き通りを中心にしたコースで、南灣大馬路や内港地区へ通じています。新馬路は全長1.5kmほどですが、通り沿いには中国とポルトガルの影響がうかがえる建物が並んでいます。
市政署
公務を話し合うことを目的として1784年に建設されました。200年以上、マカオの行政を司る中央庁舎としての役割も果たし、現在は市民生活を司る政府機関の本庁舎となっています。当初、石とレンガの壁を持つ中国建築でしたが、1784年に2階建てに建て替えられました。台風による度重なる破損と被害を経て、187...
セナド広場
セナド広場は何世紀にもわたってマカオの街の中心であり、現在も公共のイベントや祝典が開催される最も人気のある広場です。民政総署や三街会館(関帝廟)のすぐそばという立地は、地元の中国人社会が積極的に行政に関与していたことを物語っており、マカオ文化の多様性を知ることができます。広場はパステルカラーの新古典...
郵政局
セナド広場に隣接するこの歴史的建造物は、かつて同善堂もはいっていました。マカオ土地・海上公共事業局に任命された初の中国人チーフアーキテクト、ホセ・チャンにより設計され、1929年に建てられました。以来、このマカオ郵便通信局は地元や観光客の方々に郵政サービスを提供してきました。 現在でも電子ポスト、速...
聖ドミニコ教会
1587年、メキシコのアカプルコから来た3人のドミニコ会スペイン人修道士によって建てられた教会で、ロザリオの聖母が祀られています。1822年9月12日、ここで中国初のポルトガル語の新聞「A Abelha da China ("The China Bee")」が発刊されました。かつて建物の裏手にあった...
三街會館(関帝廟)
かつての中国市場があったあたりは、今も市場(營地街市)が建っています。西洋式のセナド広場に接して、この中国式寺院が存在する姿から、二つの文化の共生を見ることができます。関帝廟は、中国商工会議所の前身として中国系事業組合と長年密接に関わっています。
質屋博物館
かつての質屋「徳成按」(美徳と成功の質屋)は1917年にマカオの裕福な商人高可寧によって設立されました。建築デザインと間取り、室内装飾と建物の装備は当時の中国本土の質屋と非常に似通ったものであったと考えられます。 今日、このような質屋は歴史の奥深くに追いやられてしまいましたが、マカオの文化遺産を保全...
同善堂歴史資料館
同善堂慈善協会は1892年に設立された、マカオで最初の中国の慈善団体で、また中国全土でも継続的にサービスを提供してきた唯一の中国の慈善団体です。 最初は貧しい人たちに食物や衣服、薬などを提供する小さな組織でしたが、現在は保育園や小中学校、社会人教育センターや診療所、薬局を擁し、米や食用油を配給する大...
上架行會館
清朝皇帝道光の初期の時代に建設された大工労働組合は、マカオで最も古い労働組合であり、現在でもマカオ大工労働組合となっています。この労働組合は、大工、足場職人、石の彫刻師といった建築業界の伝統的な3職人のために設立され、後に塗装職人など、他の建築関係の職人も加入しました。建物はもともと1840年に建て...
庇山耶街
かつては、北湾(今の内港)の台風の避難所でした。岩場に多くの葦が生息し、中国人は葦海岸と呼んでいました。清朝の同治帝の時代に、ポルトガル政府が湿地を干拓地にかえました。当時はアヘンパイプの生産で有名になり、北京へ輸出されました。現在では地元の手工芸品など土産物屋が軒を連ねています。
福隆新街
かつての遊郭街でマカオの歓楽街の中心でした。現在では伝統料理を提供するレストランや土産物屋でにぎわっています。
清平戯院跡
新馬路の上のほうに位置するこの劇場は1875年に建設され、地元の観客に広東オペラを上演していました。マカオで初めて建設された劇場で、名前の「清平」は平和と繁栄を意味します。後に映画館となりましたが、1990年代に演劇業の衰退に伴い、1992年に閉鎖され倉庫になりましたが、そのまま使われなくなりました...
白眼塘横街(カルデイラ通り)
かつては、北湾(今の内港)の台風の避難所として使われました。海岸に沿って潮が、掻き混ぜられた泡に見えたことから、この「白眼糖(メレンゲ)」がつけられました。
内港
半島の西部に位置し、海岸線は3500メートルになります。外国商船の停泊業務を行った最初の港で、それぞれ異なる機能を備えた34の桟橋からなります。現在では主に漁船の為の水揚げ、出荷などを行っています。中国との貿易から、漁業の衰退、海上輸送の発達など、海運業の歴史を見守り続けています。
オピウム・ハウス
オピウム(アヘン)・ハウスは内港の海岸付近に19世紀後半に建てられました。建設当初はアヘンハウス、倉庫として使われましたが、1946年のアヘン禁止後、工場として使われました。1996年、オピウム・ハウスは改装され、完全に復元されました。2001年には同善堂慈善協会の第2クリニックとして、一般の人々に...
オルタ広場(司打口)
内港近くの広場です。清朝の同治帝から康熙帝の時代はアヘンの輸入のための桟橋でした。アヘン戦争の原因の一部となったとも考えられています。19世紀後半には、埋め立てにより広々としたエリアになりました。広場には屋台がでて様々なパフォーマンスを愉しんだり、市場として使われたりしましたが、現在では市民の憩いの...